あかりとりBBS 1878

ルンル
1 名前:

2017/07/09 (Sun) 06:01:22

ルンル情報関連

2 名前:

2017/07/09 (Sun) 06:13:14

植原先生YouTube より

お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)難行苦行の果て出家して「悟り」をひらいたという話があるが
本当にそれは「悟り」なのか? また本当に悟りというものがあったとしたら、一王子が
たどり着いた境地なら自分もまたたどり着けるではないか?と考えた。

最初、釈迦は食べない等の難行苦行をした→これら苦行の後何らかの意識の状態にはなるが
行をやめてしまえば元に戻ってしまうといった経験をする。

その経験の後釈迦は、「自分自身」と向かい始めた。
植原先生もちょうどそのころ「自分自身との対話をはじめていたところであった。

3 名前:

2017/07/09 (Sun) 06:44:12

自分自身と対話をし、
対話をしながら気づいたことについて自分自身で解決していく。
解決するとまた問題がみつかるのでそれをまた説いていく。

このプロセスは座禅とはまったく違うもの
座禅は湧き上がってくるものを「なくしていくもの」
釈迦は湧き上がっているものを「確認し見極めていく」

釈迦は
あるものが存在→その前にあるものが存在する→その前にあるものが存在する…
その循環を見極めた。
その逆の
これがなければ→これもない→これもない…
という循環も見極めた。

人を悩ませる心の働きを鎮める方法があるはずだとおもい
釈迦は自分の心を静かに見極め 因果から結果を確定していく方法を見つけ出した。


釈迦の気づきは 私たちの生活のいかなることにも応用できる。

植原先生はそれをすごいと思いつつ、常にその意識状態にあったわけではなかったため
どうしたら常にその状態になっていけるのかを考えた。

世の中にそのような心の働きをするところがあるのだろうか?と思い
世の中のすべてを見てみようと考えた。

まず自分の肉体を観察し、その肉体より少し先→ 住んでいる街→日本列島→…→地球全体→太陽系→
銀河系→大宇宙とどんどん広げていった。
広げていったらどんどん小さくなっていったので面白いことが起こるなと思った(?)

意識が広がれば広がるほど現実は小さくなっていったが、
あるところまでいったらそれ以上広がらない点が見つかった。
これが「この世の極大点」
そこに至ってみると

釈迦は「この世は川の流れのようだ」といったが、植原先生もまったく同じ感覚をもった。
植原先生が見たもの感じたもの身体的な状態はまさしく釈迦が因果の確定をした意識の状態
そのものであったろうという確信をもった。

そしてそこから戻ってくるまでに見たもの感じたものも同じであろうと確信した。
ある→ある→ある
ない→ない→ない


そうすると「すててのものに対してわかる」
形而上学的なものでなく、現実的なものであればそれに関連しないものは一切ないので
如何なることでもわかる。
釈迦がすべてのものを知った!と断言したのはこの事であろうと理解した。


逆に小さくなるときにはどうなるのだろうと植原先生は考えた。
私たちは最小単位でいえば原子でできているがその原子を更にどんどん小さくしてみて
ああここから先に命はないというというところでみたものは、広げていったときにみたものと
同じものだった。

これこそが現実のものをみるときに順逆にみていくということ、そうすればすべてのものが
見えてくるということだ。
釈迦は人間はその気になればこのように歴史上まれにみるほどの働きをするということを証明
し、その釈迦の意識を今の私たちでも感じることができると感じる感覚をもっている。

人にいわれた「この世とはこういうもので、こうしなければいけない」の言葉にとらわれず
自分自身でものをみて、みたものから判断し行動して、行動したことに対して自分自身で
処置・責任をもてるようになるはずだ。

これが釈迦が一番最初に言う「私たちは平等である」の意味
自分の心の働きをもつ。心の働きから生まれたものを受け取っていくという意味において
誰でも同じであるということ。

釈迦が残した言葉「続けなさい、怠けるな」



  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:
豆知識
1 名前:

2017/07/06 (Thu) 16:16:39

http://labaq.com/archives/50937033.html

塩の使い道

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:
面倒くさいの心理
1 名前:

2017/07/05 (Wed) 10:26:32

「面倒くさい」には二種類

1.「できるのにやらない」
→我慢する犠牲感・しなければの義務感・強制される不自由感などの感情が不快で、それに怒ったり
 反発したりする表現が「面倒くさい」とやらない形で現れる。

2.「「できないからやらない」
→「完璧にしようとするとものすごく大変。完璧にできないのなら一切しない。」が「面倒くさい」
という表現になる。背景にコンプレックスがあり、自分の不完全さを感じる挑戦を避けようとする。

2 名前:

2017/07/05 (Wed) 10:28:44

意欲を引き出すには、できるのにやらない時は、誰かにやらされている感を払拭して
「自分がやりたいからやる」と自主的に取り組む意味を見つけていくことが必要でしょう。

できないからやらない時は、「完璧にできなくてOK」と要求水準を見直し、過程を評価していく
こと、不完全さを許すことが必要でしょう。

http://www.counselingservice.jp/lecture/lec688.html

3 名前:

2017/07/05 (Wed) 10:33:35

●「できる」のにやらないのは


「やろう!」と思って取り組めば、そんなに難しくなく終わるのに、面倒くさくてやる気が
起きないというケースです。

簡単に言えば、人は「やりたくないこと」をしようとしている時に「面倒くさい」と感じます。
「なぜやりたくないと感じるのか?」がやらない理由になるでしょう。

例えば、休日に自分は読書をしたいのに、友達に「洋服を買いに行こうよ。」と誘われた場合。
「その日に本を読むのをあきらめて、洋服を買いに行けなくはない。でも、面倒くさいなぁ。」と
なったりしませんか。自分の意志と違うことをしなければならない時、私達は面倒だと思うようです。

自分が我慢しないといけない犠牲感や、「~しなければならない」という義務感、誰かに強制
されているような不自由感があったとしたら、「やりたくない=面倒くさい」と感じるでしょう。
「できるのにやらない」のは、犠牲・義務・不自由などの不快な感情に対してストライキを
起こしているようなものかもしれません。時には、「私は今こんなに大変なの。誰かわかってよ。」
という気持ちが、「面倒くさいからやらない。」という反逆のスタイルで表現されることもあります。
イカリや反発心が面倒くさがりの背景にあるのかもしれませんね。

「できるのにやらない」タイプの面倒くさがりさんには、「自分がやりたいからする」という
自主性を取り戻していくことが必要となってきます。

そのためには、それをすることの「意味」をもう一度探してみること。
それをすることで自分にとってもメリットがあるとか、それをすることで誰かを喜ばせることが
できるなど、何か意味はありませんか。意味が見つかって「自分がやりたいこと」に分類されたら、
面倒くささも減るのではないでしょうか。

また、「やらなくてもいいことをやめていく」という方法もあります。
選択の結果、自分が「やる」と選んだことだと思えたら、意欲をもって取り組みやすくなるでしょう。

4 名前:

2017/07/05 (Wed) 10:36:59

●「できない」からやらないのは


「やるからには、ちゃんとやりたい。でも、そのためにはAとBとCもしなきゃ…。」と、
一つのことを成し遂げるのに「しなければならないこと」がいくつもあると、
「全部するのは無理かも。面倒くさいからやめておこう。」となるケースです。

こちらのケースは、物事を0か100かで見る、白か黒かをはっきりさせたい、いわゆる完璧主義
傾向がある人に多く見られます。完璧主義者の基準は「完璧にする」か「完璧にできないのなら
一切しない」の2択です。完璧にするためには、多大な労力の投資が必要です。
この膨大な労力をかけなければならないことを想像して面倒くさくなるわけです。

ここでは「完璧にできなくてOK」と、自分や他人への要求水準を見直すことが大切になって
きます。

例えば、オリンピックで金メダルを獲得できない選手がいたら、その選手の存在意義はないの
でしょうか。そんなことはないですよね。たとえ金メダルを獲れなくても、オリンピックで競技
できたことは素晴らしいことでしょう。その選手を通して、たくさんの人が夢を抱き、挑む姿
から感じるものがあったでしょう。金メダルがなくても、その人は評価される存在でしょう。

あなたという存在も同じではありませんか。たとえ完璧にできなくても、何かに一生懸命取り
組む姿は周囲にいい影響を与える存在なのではないでしょうか。

心が元気でいるのには、「結果がすべての考え方」よりも、「過程を評価する考え方」を取り
入れた方がいいのかもしれません。過程が大切にできたら、「完璧にできないなら一切やらない」
という極論から抜け出しやすくなるのではないでしょうか。

取り組むことで成功体験を重ね、達成感を覚えて自信を持ち、更なるやる気につながっていく
とか、失敗を乗り越えて成長するとか、やってみるからこそ生まれる流れがあります。

完璧にできなくてOKです。まずは、少しずつ取り組んでみてはいかがでしょうか。
動き出しは面倒に感じるかもしれませんが、転がりだしたら意外に楽しいかもしれませんよ。

それから、「完璧な自分でいよう。」とする裏側には、「自分は不完全だ。」というコンプレックスが
潜んでいると言われています。私達は不完全さを隠そうとして完璧さを求めることがあるようです。

人間はみんな不完全です。
自分の不完全さを否定するのではなくて、不完全さがある現実を受け容れてみませんか。
不完全ながらがんばっているのだとしたら、「よくやっていると思うよ。」と自分を認めやすく
なるのではないでしょうか。

自分を認められるようになると、「完璧にできないなら一切しない」と面倒くさがっていた気持ちが
変化して、「ちょっとやってみようかな」という意欲が芽生えるかもしれません。

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:
舞い降りてきた
1 名前:

2017/03/28 (Tue) 22:32:35

どこかから舞い降りてきた…

2 名前:

2017/03/28 (Tue) 22:40:42

愛おしく思えれば、扱えれば良い。

茶道がお茶の味だけでなく器やらなんやらを褒めたり愛でたりするのを作法とするのは、
お茶を味わうことだけに心を奪われるのではなく、そのお茶を包む器や、器を作った人の心や
お茶室を飾る花や掛け軸、そして当然ながらお茶をたててくれた人、そういったすべてのものから
放たれる慈愛のようなものを味わい感謝することを教えるため。

どんな状態のどんなものでも愛でることができるならそれが一番いいのだけれど、
なかなかそういう風に人はなれない。

だからこそ「断捨離」という方法が生まれた。
まずは愛でることのできるもの、そのものが放つ慈愛を味わえるものだけに囲まれ
動作行為のひとつひとつをその慈愛に包まれて行う。
慈愛に包まれる習慣をつければ、慈愛を感じられる範囲が広がっていく。

いつかすべてのありのままを愛せるために少しずつでも前に進んでいくこと。

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:
    • タイトル:
    • 名前: E-mail(省略可):
    • 画像:
Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.